電車の昇降付近に立ち、流れる景色を眺めながらようやく理解した。
霞流の豪邸(そう呼ばせてもらう)を出てからもしばらく残る、胸中の小波。その理由。
――――― 美鶴さん
霞流にそう呼ばれたのは、初めてだ。
いや、霞流に限定したことではない。苗字に「さん」を付けられるのは日常茶飯事だが、名前につけられたのは初めてだ。
違和感を感じる。
それを振り払うかのように、必死に景色を凝視する。
霞流の豪邸は小高い丘の上にあり、駅は坂を降りたところに見つかった。駅の周辺には住宅街が広がり、美鶴が暮らしていた下町の、ごちゃごちゃとした駅前商店街のような雰囲気は微塵も感じられない。
何もかもが洗礼された空間のようで、行き交う人もなんだか気取って見えた。
いわゆる"セレブ"といった言葉が似合いそうな人々が、ゆったりと動いている。
唐渓高校へ通う生徒も数多く暮らしているのだろう。だが、すでに登校時間を過ぎているので、出会う心配はないと思われる。
サボったり故意に遅刻したりするような生徒はあまりいないはずだ。唐渓において、それらの行為は本人の恥であると共に、家の恥でもある。
霞流の家の電話を借りて、さっき学校へは連絡をした。対応した事務員の声は機械的で素っ気なかった。
「わかりました。担任は阿部先生ですね。こちらから伝えておきます」
だが美鶴には、その機械的な対応がむしろ嬉しかった。担任などに取り次がれてあれこれ聞かれるのも面倒だ。とりあえず連絡先を聞かれ、まさか霞流家の電話番号を言うワケにもいかず、とっさに母の店の番号を伝えた。
電車を乗り継ぎ、かつての「我が家」へ――――
途中でふと思いたち、足を止める。
寂れた商店街の一角。そこで細々と営業する店。美鶴の他に客はない。
入り口から店内すべてが見渡せるほどの小さな造り。雑多な物がごちゃごちゃと並べられ、狭い店内をより狭めている。それらに手先を隠してしまえば、万引きなどは造作もないだろう。
質は悪いが安いので、大迫親子はよく利用する。
全体的に利用客が少ないからか、顔を覚えられていたのかもしれない。店番の老婆は美鶴の顔を見て、微妙な表情を見せた。だが、昨夜の火事で燃えたアパートの住人であるということまでは知らないはずだ。火事について、特に聞かれることもなかった。
下着を買い、見慣れた路地を進む。
ちなみに母の詩織は、胸にタオルをグルグル巻いて朝食へ出た。美鶴は、何も言えなかった。
かつての我が家は、キナ臭さはほとんど消えていた。だが、まだしっとりと湿り気を残した、乾ききらない木材が、無残に積み上げられている。
警察が数人。現場検証というヤツだろう。大家があれこれと聞かれている。やっと開放されたのを見て、ゆっくりと近づいた。
「ども」
軽く会釈をすると、男性は薄くなった頭を撫でる。
「全焼ですね」
「古かったからね」
「この分だと、何も残ってなさそうですね」
「まぁ がんばって探してる人もいるけど、期待しないほうがいいね」
そう言って見やる大家の視線の先で、南米か東南アジア系の男性が蹲っている。
「それにしても、すごいですね。燃えるとこんなんになっちゃうんだ」
美鶴の言葉に大家は小さく口を開き、躊躇って一度閉じてから、また開いた。
「………放火らしいよ」
つぶやくような言葉に、美鶴は目を丸くする。
「放火?」
「らしいってだけ。俺は専門家じゃないからわからないけど、燃え方がそれっぽいって」
「それっぽい…… ねぇ?」
誰かの悪戯か気まぐれで自分のすべてが灰になったのかと思うと、無性に腹が立った。
もし放火だとして、犯人が見つかったとしても、失ったものは戻らない。戻らないだろう。
「放火ねぇ? ホントかなぁ?」
燻る感情をどうにか抑えて呟くと、大家がさらに口を開く。
「でもねぇ……」
言いよどみながらも、隠すつもりはないらしい。知っていることを他人に開放することで、火事のストレスを発散させようとでもしているのだろうか?
「火元が104ってのは、確かにヘンだしねぇ」
「104?」
「そう、104号室。空き部屋」
大迫親子が借りていた部屋の真下。空き部屋であったことも知っている。
「空き部屋から出火ってのもヘンだからねぇ。やっぱ放火かなぁ?」
大家の言葉に、美鶴も首を傾げる。
確かに疑う余地はある。
「放火ってのが本当ならさ、冗談じゃないよねぇ……」
「放火………」
焼け落ちた残骸へ視線を送りながら、美鶴はぼんやりと呟いた。
泣きぐずる子供とそれをあやす異国風の女性。ワケのわからない言葉を吐きながら、疲れたように両手を広げる男性。数人で固まる学生達。
ほんの一日前までは、彼らの住処として建っていたアパート。その姿が浮かび上がる。
ほんの一日前まで………
小鳥のさえずりが長閑に響き、鮮やかな若葉が風に揺れる。それらが、事の重大さをかき消そうとする。
高く上った陽の光がうなじに直射し、汗がにじんだ。
――――― 暑い
そう思った途端、目の前に紅い炎が燃え上がった。
揺れる若葉を燃やして、炎はあっと言う間に立ち上る。
思わず息を呑む。
同時に、炎は消えた。
恐怖は後からやってくるというが………
乾いた喉に生唾を飲み込む。そんな美鶴に、大家は気付く様子もない。
「そういえば、大迫さんは104の真上だったよねぇ。なんか心当たりとかないかなぁ? 警察に聞かれなかった?」
そう言って大家の男性は、上目づかいでそっと美鶴へ視線を送る。
「あ、警察とはそういう話は……」
美鶴の言葉に、今度は男性が目を丸くする。
「あれ? 昨晩の聴取、受けてないの?」
「あ… はい」
男性は額を叩く。
「あれぇ〜? 気付かなかったよ。警察に住人のすべてを集めてくれって言われてさ。昨日の夜の十時頃だったかなぁ? てっきりみんな連絡取って集めたと思ってたんだけど……」
そう言って男性は、今度は警察官の方へ向いた。
「すいませーん」
まぁ、連絡先も知らせずに霞流の家へ行ってしまった大迫親子も悪いのだが、それにしても気付かなかったとは……
警察も把握しとけよ
美鶴は結局、その聴取とやらを受けなくてはいけなくなってしまった。
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